2011 年 4 月

宮城県に行ってきました~瓦礫撤去作業・視察編~

27日、炊き出しをした26日と同じく仙台は快晴。

宿泊させていただいている仙台別院は朝7時からお朝事のお勤めでした。

本堂の中は全国から集まった支援物資が山積み。
様々な種類の物資がありましたが、過剰に余っている物もある様子。

支援物資を送るときは、刻一刻と移り変わる被災地の不足情報を常に確認する必要性を痛感。(こちらで用意した物が無駄になるのはもちろん、被災地の方もせっかく持ってきてくれたものを無下に断るわけにもいかず、結果過剰な在庫となってしまう)

さて27日の活動は仙台市に程近い多賀城市の災害ボランティアセンターにお世話になりました。

9時前に多賀城のボラセンに到着するとすでにたくさんの人が列を作っていました。

二階に上り、そこでマッチング作業待ち。

被災した市民からの依頼に応じて、担当者達がテキパキとボランティア人員を振り分けておられました。

私たちはちょうど5人でのチームとなりました。

場所は韓国料理店。
店が生活住居と一緒になっており、一階の店舗裏の生活部分が津波で相当な被害を受けていました。

地面から1m50cmを越える高さまで津波の跡が。

5人で一生懸命働いたつもりですが、その家全てを片付けることは到底無理でした。

自分ができることの小ささを痛感。
被災している地域はもっともっともっとあります。
一人一人が自分にできることをしていかなければならないと感じました。

午後3時に作業を終え、再び若林区を視察。

被災した浄土真宗のお寺を訪ねました。

鐘楼は倒れ、親鸞聖人像の笠も曲がってしまっていました。

本堂内もある程度片付いていましたが被害の大きさを見せつけられます。

墓地も大変なことになっていました。

ちょうど震災の四十九日の前日でした。

お参りしておられたご老人。
誰がお亡くなりになったのでしょうか。声がかけられませんでした。

翌28日は宿泊させていただいていた部屋の掃除をした後、視察のため気仙沼市に向け出発。

途中まで高速道路を使ったのですが、到着まで3時間弱かかりました。

気仙沼市に入ると、まもなくして津波の傷跡が。
恐ろしいまでの津波の破壊力。

ここにも津波が襲うまでは私たちと何も変わらない普通の家庭があったのでしょう。
生活の跡が残っています。

巨大な船が車の行く手を塞いでしまっています。

海の中に沈んでしまった道路。

対岸にもたくさんの船が打ち上げられていました。

海水が引かず、臭いも相当な範囲に渡っていました。

このような現実はここだけではないでしょう。

実際に被災地に行ってみると、この震災の規模の大きさを改めて感じさせられました。
そしてまた、自分がどれだけ小さいかということも。

今、人間一人一人の意識が問われています。

一人一人がどんなに小さいものであったとしても、皆でがんばり、つづけていけば、必ず復興は遠い未来のことではないと信じています。

これからも自分にできることを考えながら、皆でできることを互いに考えあいながら、被災地への支援を継続していきたいと思います。


宮城県に行ってきました~炊き出し編~

今月25日(月)から28日(木)にかけて東日本大震災の被災地の一つである宮城県に行ってきました。

参加メンバーは広済寺が所属する五位組の寺族3名と門徒推進員2名の計5名。

事前に東北教区の仙台別院に開設された「浄土真宗本願寺派東北教区災害ボランティアセンター」に連絡をし、25日早朝、車2台に炊き出し物資・支援物資を積め込み、仙台に向け出発しました。

仙台までは片道の高速料金だけでも1万円以上するのですが、高岡市が「東日本大震災 支援物資つなぎボランティア」というものを募集していたので早速これに参加。
市が集めた支援物資ダンボール5個以上を被災地に届けることで、高速道路料金無料等の助成をしていただきました。

仙台までの途中、磐梯山SAでは激しいあられに襲われ、被災地ではまだまだ厳しい寒さが残っていることを実感。

7時間かかってようやく仙台市青葉区にある仙台別院に到着。

到着後すぐ、明日に炊き出しを予定している若林区の六郷中学校に設置された避難所へ挨拶も兼ねて下見に出発。

この中学校は海岸から約5km離れているとのことですが、結局津波は校門直前まで達したそうです。

避難所の方と明日の炊き出しの打ち合わせをした後、若林区海岸周辺を視察。

被災から一ヶ月以上経っているのである程度は片付けられているのでしょうが、それでも辺りはまだまだ瓦礫だらけ。

海岸まで出ようと車を走らせましたが、途中で道が陥没しており迂回を余儀なくされました。

津波が襲ってきた太平洋の海に望む海岸には、花束が供えられていました。

この若林区の海岸周辺は高いところが全くと言っていいほど無く、非常に多くの犠牲者が出た地区でした。

仙台別院に戻り、院内の旧あそか幼稚園に宿泊。

明日、午前中は別院内の掃除を手伝い、一段落したところで、六郷中学校避難所へ出発。

私たちの担当する炊き出しは夕方なのですが、早めに行き準備開始。

横では、東京から来た美容師の方々が活動しておられました。

私たちの炊き出しの献立は「うどん」。
高岡からやって来た私たち5人の他に、東北教区災害ボランティアセンターから4人加えていただき9人で準備。

前日で自衛隊による炊き出しが終了し、私たちが最初の民間の炊き出しだったからでしょうか、中学校の生徒たちが取材に来てくれました。

午後5時30分、いよいよ炊き出し開始です。

多くの方々が食べに来て下さり、うどん作りはフル回転。

結果、およそ300名の避難者数でしたが用意した400名分のうどんのほとんどがなくなりました。

余ったうどんとつゆはちょうど避難所に大きな冷蔵庫が設置されたこともあり、避難所の方々がもらってくれました。

炊き出し終了後、元気な被災者のおばあちゃんが皆を笑わせるようなバカ話をしながら私たちの片付けを手伝ってくれましたが、後で聞くと、このおばあちゃんも今回の津波で旦那さんを失っていました。

辛い中、悲しい中、懸命に前を向いて生きていこうとしているおばあちゃんの姿が心に深く残りました。

 

~瓦礫撤去作業・視察編~ につづく


五位組大遠忌団体参拝~第一回~

4月10日(日)から一泊二日で、五位組親鸞聖人750回大遠忌法要団体参拝を行いました。

4月9日から西本願寺で始まった親鸞聖人750回大遠忌法要に参拝するためです。

今回はバス8台での出発となりました。

途中の尼御前サービスエリアで結団式をし、いざ京へ。

京都へは比叡山から入りました。

比叡山は親鸞聖人が若い頃に修業なさったお山です。

今回は東塔の大講堂、根本中堂に参拝させていただきました。

比叡の山を下り、山科を通って蹴上から京へ入ると、インクラインの桜が満開。

写真を撮れなかったのが残念なほどでした。

宿泊先は二条鴨川そばの旅館でした。

鴨川に出るとここも桜が満開。

ベストな時期に本願寺に参拝できたことにお得な気分になりました♪

夕方、比叡山から別動隊として大谷本廟に納骨参拝に行った方々も到着して、夜は大宴会でした。

2日目11日はいよいよ本願寺大遠忌法要参拝です。

本願寺に着くと修復された御影堂は新たに増設された参拝席ですっぽり覆われていました。

御影堂内に入るときも通常時と勝手が違います。

仮設の建物の中に入ると、まるでテーマパークで順番待ちをしているような雰囲気。

ようやく御影堂に入ると内陣がはるか遠くに見えました。

参拝席は全て椅子席で用意されていましたが、その広さに圧倒されました。(その後の帰敬式に隣の阿弥陀堂にお参りしましたがとても大きいはずの阿弥陀堂が大変小さく感じました)

法要終了後、新門様・ご門主様からお言葉を頂戴しましたが、今回の東日本大震災についてお話しになりました。

自分にできることを考えながら生きていく、原発に依存してきた現代流の「豊かさ」をもう一度見つめ直すということが心に残りました。

法要終了後は御影堂の隣の阿弥陀堂で帰敬式(おかみそり)です。

五位組からは144名の方が新たに仏さまのお弟子として法名を受けられました。

お念仏に生きる仲間が増えて、帰りのバスの中では皆で拍手でお祝いしました。

その後、新しくできた龍谷ミュージアムや本願寺周辺を自由散策した後帰りの帰途に着きました。

行きと同じく帰りも尼御前サービスエリアで全員集合して解団式。

夕方の尼御前は二日間のポカポカ陽気とは打って変わっての大変な冷え込みよう。

北国に戻ってきたことを感じさせられました。

こうして無事に本願寺大遠忌参拝を終えることができましたが、この本願寺参拝のご縁でそれぞれに心に思うことがあったと思います。

今も東日本大震災で悲しんでいる方々がいる中で、この思いを大切にしていきたいと思いました。

五位組では親鸞聖人750回大遠忌団体参拝~第二回~を11月13日(日)~14日(月)にも予定しております。

こちらは今回の第一回とは違い80名ほどの予定でいますので希望者は早めの申し込みをよろしくお願い致します。

申し込み用紙は こちら です。

今回参拝させていただいた、この親鸞聖人750回大遠忌法要は西本願寺にて、今月9日から始まりました。

これから来年の1月まで、毎月9日~16日の期間(8月・12月は除く)を中心にその他含め全65日間、計115座が勤まります。

皆さんも是非この50年に一度の大法要を参拝なさってみてくださいね。


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